2011年3月11日、M9.0と言われる巨大地震が太平洋沖で発生。地震によって引き起こされた津波は東北沿岸を襲いました。
当時、宮城県名取市の海にほど近い場所に事務局があった私たち「地球のステージ」と桑山の運営する「東北国際クリニック」にも津波が到達。私たちは被災者になりました。幸い建物の倒壊は免れ、スタッフも無事だったため、震災翌日から自分たちにできる活動を始めました。
東日本大震災。地震とその後の津波によって町は破壊され、多くの命が失われました。
当時、宮城県名取市に事務局があった「地球のステージ」。私たちにできることをしようと、震災翌日から医療支援活動を始め、その後、心のケアや命の大切さを語り伝える活動にも力を入れていきました。
2011年3月11日、M9.0と言われる巨大地震が太平洋沖で発生。地震によって引き起こされた津波は東北沿岸を襲いました。
当時、宮城県名取市の海にほど近い場所に事務局があった私たち「地球のステージ」と桑山の運営する「東北国際クリニック」にも津波が到達。私たちは被災者になりました。幸い建物の倒壊は免れ、スタッフも無事だったため、震災翌日から自分たちにできる活動を始めました。
発災から2ヶ月間、24時間体制でクリニックを開け、医療支援を行いました。クリニックのスタッフだけではなく、全国から駆けつけた医師、看護師、事務スタッフ、ボランティアの方にもご協力いただき、活動を継続することができました。その後は桑山の診療にて心療内科的な相談を受け付け、多くの被災した方たちの言葉に耳を傾けました。 余震が落ち着いてきた2011年6月、名取市内で被害が大きかった閖上小学校、閖上中学校、下増田小学校の子どもたちを対象に心のケアを実施。2013年3月まで、定期的にプログラムを実施し、PTSDの予防に努めました。震災当時、閖上中学校3年生で、4月から高校生になった子どもたちともキャンプなどを通じて集まる機会を作り、思いを共有する場を作っていきました。 大人のみなさんがつどい、語り合う場所として、「閖上あみーず」を結成。編み物や手芸を通して集まり、語り、失ったものを自らの手で再生しながら元気を取り戻していきました。 2011年秋には閖上中学校遺族会の立ち上げに関わり、慰霊碑の建立、社務所機能を持つ「閖上の記憶」の設立へとつながりました。その後、「閖上の記憶」は津波復興祈念資料館としての役割を担い、被災地を巡る案内ガイド、震災や命の大切さを語り伝える語り部の拠点として、人材を育成しながら活動を続けています。毎年、3月11日には「追悼のつどい」を開催しています。
東日本大震災翌日、3月12日より桑山のクリニックで医療活動を始めました。津波で家を流され薬がなくて困っている人、寒さで風邪を引いてしまった人、不安で眠れない人、多くの方がいらっしゃいました。近隣の医療施設が再開しない中、応援に駆けつけた医師、看護師、事務スタッフ等、多くの方の手を借り、震災からの2ヶ月間、24時間体制で患者さんの受け入れを行いました。また、市内の避難所をまわり、移動診療も提供しました。医薬品を届けにトラックで駆けつけてくれた医療機関の方もいらっしゃいました。 余震が落ち着き、避難所から仮設住宅へ移った頃からは、桑山のクリニックにて診療を継続しました。家族を失った悲しみ、見ないへの不安、多くの方が心に抱えたものを話してくださいました。話を聞き、一緒に涙することで心の回復を図っていきました。
震災から2ヶ月半、余震も落ち着き、避難所から仮設住宅への引越しが終わった頃から、子どもたちへの心のケアを開始しました。世界の被災地で行ってきた心のケアを地元、名取の子どもたちと共に行います。絵を描いたり、粘土細工をしたり。震災のことを表現しながら、その時の気持ちを分かち合っていきました。
「忘れられないあの日」というテーマで個人制作したジオラマには、後ろから迫る津波と逃げる自分とお母さん、その後に逃げ込んだ家が表現され、津波の大きさと恐怖が伝わってきました。グループで制作した街のジオラマには大好きだった学校とちびっこ丸という船の遊具を並べたり、懐かしいお店が並んでいたり。津波で全てなくなってしまったけど、新しくできる街はどんな街がいいか、みんなで考えていきます。震災のことを歌詞に読み込んで歌った音楽ワークショップの取り組みでは、被災してしまった農業高校に残るがれきを楽器に代えて蘇らせていきました。映画制作ワークショップでは被災した街を駆け回り、いのちの大切さを考えました。映画は市民会館で上映。たくさんの方に観ていただき、賞賛を得て子どもたちは元気になり、観た人たちもなつかしい街のことを話題にしていきました。作品を通して社会とつながりエンパワメントされていく。私たちのめざす心のケアの形です。 2013年3月、2年近くに渡る心のケアの活動は終了しました。一緒に活動する中で、子どもたちとたくさん話をし、私たちも元気をもらいました。
震災当時、閖上中学校3年生で、4月から高校生になった子どもたちともキャンプや表現活動を通じて思いを分かち合う場を持ちました。別々の学校に進学し、震災のことを話す機会が少ない彼らにとって、同級生と過ごす時間はかけがえのないものになりました。
大人が語り合う場として、編み物や手芸を行う「閖上あみーず」を立ち上げました。黙々と作業をする傍ら、なんとなく始まる会話の中に、日頃の不安や悩みが出てきます。その時間を大切にしていきました。復興への願いを込めた「虹色アクリルたわし」は人気を集め、ストラップやブローチなども制作。「閖上の記憶」で販売し、多くの方手に取りが喜んでくれることで、あみーずメンバーの世界は広がり、制作への意欲は日々の活力へと変わっていきました。
2011年の夏の終わり、「亡くなった子どもたちの慰霊碑を作りたい」と一人の女性が声をあげました。丹野祐子さん、閖上中学校遺族会の代表で、現在は一般社団法人「閖上の記憶」の代表を務めています。丹野さんと共に中学校で亡くなった子どもたちのご家族に声をかけ、閖上中学校遺族会を発足。2012年3月には子どもたちの名前を刻んだ慰霊碑が完成、そこを見守る社務所として「閖上の記憶」を作りました。その後、「閖上の記憶」は震災のこと、命の大切さを伝える場所としてたくさんの方に来てもらえる場所になりました。街をめぐる案内ガイドや震災のことを伝える語り部活動にも力を入れてきました。
2022年春、一般社団法人として独立し、地元の方を中心に運営が進んでいます。毎年、3月11日は鳩風船にメッセージを書いて空に飛ばす「追悼のつどい〜みんなのこと忘れないよ」を実施。全国から駆けつけてくださるたくさんの人たちと大切なときを過ごしています。
震災から2週間。地球のステージ公演を再開しました。そのときから公演の中で震災や津波で何が起きたのか、そこに生きる人たちは何を不安に感じ、今をどう生きようとしているのか、語り続けてきました。時間と共に少しずつ内容を変えながら、命の大切さ、防災への備え、知ることの意味を分かち合ってきました。その後、多くの方が被災地を訪れ、人と人との新しいつながりが生まれていきました。
対象地 | 宮城県名取市閖上地区、下増田地区を中心とする被災地域 |
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対象者 | 宮城県名取市とその周辺に暮らすみなさん |
対象期間 | 2011年3月11日〜2022年3月 |
災害はない方がいいに決まっています。でも、いつの日か、「津波のおかげで」変われた自分、出会えた人々とのご縁に気づく日が来るかもしれません。丹野さんに「悲しみは乗り越えるものではなく、共に生きていくものだ」と教えてもらいました。心のケアの核心をつく一言です。
震災直後から続けてきた活動は、「閖上の記憶」という施設とそこに集う人々が一般社団法人として独立し、自分たちの手と足と強い思いで歩き始めたことでひと段落しました。これからはその活動を見守りながら、追悼のつどいの運営支援などの後方支援を行なっていきます。これからも人の心に寄り添う活動ができるよう、このプロジェクトを支えていきます。