岐阜県高山市に生まれる
学生時代「暗闇と挫折の時代」
中学時代、自分の容姿にコンプレックスを抱いていた。
それをはねのけようとヴァイオリンとギターを始めるが上手くならず、かえってコンプレックスが増した。
人となじめず孤立した自分。でも、医者になって自分の壊れたアタマを直すという思いで医学部受験。同年山形大学医学部合格。
18歳で山形での暮らしが始まる。
1983年「バンコクにて」
バックパックを背負い1日20ドル以内に出費を抑える旅に出る。
インドへ旅する際に立ち寄ったバンコクで知りあったタイ人に
「おまえ、なぜ人とくらべてんの?そのままでも十分いいやつじゃん」と言われ立ち尽くす。
日本では常に人と比べて自信を失っていた自分に気づく。
自己解放の「放浪の旅」の第一歩。
1987年「転機:大切な出会い」
当てどなく出かけたフィリピンでロエナス一家と出会う。
いろんな国の人たちに助けられた自分に気づき、恩返しができればと素直に思えた出会い。
1989年「はじめの一歩」
タイ国境のカンボジア人難民キャンプ「カオイダン」。
がむしゃらに突き進んだここでの活動がその後の国際協力の始まり。
1991年
湾岸戦争後のイラクに医療救援で入る。
本格的に医師として救援活動を行った第一歩。
1992年
和平後のカンボジアに病院復興で入る。プノムスロイ群の群病院復興。そこで出逢ったカンボジア人医師ボランの人生を描き、「カンボジア篇」が誕生。
1994年
内戦下のソマリア。
苦しい限界の日々の中で、「ボランティアは人のためではなく、自分のためでいい」と思え、気負いの気持ちが消えた。
1994年
ノルウェー留学。オスロ大学附属「心理社会的難民センター」で学ぶ。指導教官はDr. Edvard Hauff氏。
1995年
戦争下の旧ユーゴスラビア。「心の傷(トラウマ)」に苦しむ人々と向き合い、「心理社会的ケア」のスーパーバイザーとして関わる。JEN、木山啓子氏と共に活動。
1996年1月15日
2000年
独立紛争直後の東ティモール。
バイロピテ診療所のダン先生に医師としての生き方を教わる。
2002年8月
地球のステージをNPO法人化し、代表理事に就任。
2003年7月
パレスチナ・ガザ地区において、紛争に振り回され、心傷ついた子どもたちに対して心理社会的ケアを始めた。盟友ダルウィーシュと出会う。
2004年1月
イラン南東部バムを中心に発生した地震の救援に入る。
サッカー大会を企画し、その後のスポーツによる「心のケア」の礎をきづく。
2005年6月
スマトラ島沖地震による津波被害の「心のケア」を担当するためスリランカに入る。
2005年12月
パキスタン北部地震の医療救援活動に入る。
診療所建設と毎日の診察。
午後からはサッカー三昧の日々。
2006年7月
ジャワ島地震では医療救援に入り内科医として活動。
被災者へ音楽ワークショップを行う。(翌年も継続)
2008年2月
ヨルダンにおいて、イラク難民に対して心のケアプログラムを担当。
2009年1月
「空爆下での救援」 ガザ紛争時、日本人として唯一空爆下のラファにて緊急医療救援にあたる。
ラファ市エル・ナジャール市立病院救急救命室勤務。
2009年11月
2011年3月11日
東日本大震災にて被災。
しかし建物も残り、スタッフも無事であったので、翌日から2ヶ月間24時間体制で被災者の方診療にあたる。同年6月からは3年にわたって子どもたちの心のケア~心理社会的ケアを実施
2012年4月22日
「閖上の記憶」設立。閖上中学校で亡くなった14人の中学生の慰霊碑を守る社務所として、そして津波の被害や心の傷に向き合うための「津波復興祈念資料館」として。
2013年9月
2015年9月
2016年4月1日
神奈川県海老名市に「海老名こころのクリニック」を開業。 同時に「地球のステージ」本部を移転。名取事務所との国内2事務所となる。
熊本地震において「心のケア」活動で南阿蘇村に入る。3週間にわたって継続して支援を行う。
2016年10月
ミャンマーにおける教育支援開始。パオ族の村「ミャッセ・ミャー」で奨学金事業を行う。里親を常に募集中。
2017年3月
パレスチナにおける心理社会的ケアをガザ地区だけでなく、ヨルダン川西岸、ラマラ市にも展開する。
2017年5月
公式的な出版として「心理社会的ケアマニュアル(仮題)」を出版。心のケアのモデルとしての「心理社会的ケア」に関する日本初の出版となる。