2011年3月11日 14:46、宮城沖を震源とするM9.0の巨大地震が発生しました。
それから約1時間、事務局のある宮城県名取市にも津波が押し寄せ、沿岸部の閖上、北釜地区は大きな被害を受けました。海から4kmほど離れた事務局の周りにも津波は来ましたが、幸い建物とスタッフは無事でした。事務局と同じ建物の1階に、桑山が院長を勤めていた東北国際クリニックがありました。震災翌日、朝からクリニックを開けると多くの患者さんがいらっしゃり、それからの2ヶ月間、応援の医師、看護師のみなさんに支えられ、24時間体制で診察を行いました。
桑山はこれまで、海外で災害のあった地域に出かけ、直後の緊急医療救援、その後の心のケアに携わってきました。海外での活動が自分の住む街で活かされることになったのです。
震災から2ヶ月、がれきの片づけが進み、仮設住宅への引越しがひと段落した頃、閖上小学校、下増田小学校の被災した子どもたちを対象に、心のケア(心理社会的ケア)の活動を始めました。
心のケアでは辛いできごとにきちんと向き合い、それを表現することに重きを置いています。
2011年の終わりには自分たちの街のジオラマを制作。失った街を作り直し、震災当日に見た風景を制作し、自分たちが住みたい未来の街を作り、市役所やショッピングモールでの展示を経て多くの方に見ていただきました。
音楽ワークショップではがれきから楽器を作り出し、オリジナルの曲に歌詞をつけてみんなで歌いました。
同じように被災した石巻市や陸前高田市にも出かけ、大変だったのは自分たちだけではないこと、がんばっている人たちがたくさんいることを目の当たりにしました。
2012年末には被災地にて映画ワークショップを行い、被災した体験に向き合った子どもたちの姿は多くの街の方たちに勇気を届けられました。そして2013年3月末、子どもたちとの2年にわたる心理社会的ケア「スカイルーム」は終了し、修了式を迎えました。
映画「ふしぎな石~閖上の海」の制作
2013年5月~7月、4人の被災した小学生を主人公に映画の制作を行いました。被災地閖上に5つの石のかけらが転がっています。それを自分たちの母校、壊滅した閖上小学校の校庭で見つけた不思議な暗号文を読み解きながら集めてまわる冒険活劇(フィクション)です。
一つ一つの出来事に向き合いながら進む子どもたち、そして出逢う4人の大人たちがそれぞれの被災経験を語っていきます。中でも閖上中学校遺族会代表の丹野裕子さんと子どもたちが繰り広げるシーンは「命のシーン」と呼ばれ、全国に感動を届けてきました。
この映画は、後にガザ地区を舞台に同じ筋書きで制作した映画「ふしぎな石~ガザの空」につながっていきます。
こうして子どもたちの力を借りて「向き合うこと」の大切さを伝えてきました。
子どもたちの活動と並行して、大人のみなさんの心のケアも継続
閖上のおかあさんたちで構成している閖上あみーず。編み物を通して集まる場、語る場を作ってきました。活動の中で生まれた虹色アクリルたわしは全国に販売され、自信を取り戻す一助となりました。
現在も閖上あみーずは活動を続け「閖上の記憶」での常設販売だけではなく、全国からの購入申し込みに応えています。
閖上中学校遺族会との連携
2011年秋より閖上中学校遺族会のサポートをしています。閖上中学校では14名の生徒さんが亡くなりました。震災から1年を迎える2012年3月11日、閖上中学校前に慰霊碑を建立、追悼のつどいを行いました。この時から天国に昇った我が子にメッセージを書いたハト風船を飛ばし、空へ昇った大切な人にメッセージを届けました。以降毎年、鳩風船を飛ばしています。
「閖上の記憶」の設立
2012年4月、慰霊碑を守る社務所として、震災のことを伝える資料館として、閖上中学校入り口に「閖上の記憶」と名づけたプレハブを設置しました。日曜日には語り部の会を開催、被災した方々が震災のこと、いのちのことを伝える場としても活用されています。
また、心のケアの活動で子どもたちが作ったジオラマを展示したり、震災に関する資料、映像の上映会なども行っています。閖上を訪れるみなさまの案内ガイドの拠点としても活用しています。現在は年間2万人近い来訪者が足を運んでくださっています。修学旅行、社会科見学の子どもたちも継続して来訪しています。
2015年にかさ上げ工事の影響で日和山の横に移転。しかしその後、海沿いの近くが整地されるため、3度目の移転準備中です。今回は「閖上朝市」~メープル館横への最終移転の調整中です。
ぜひいらしてください。
これから
今後も「閖上の記憶」の維持運営を中心に、東日本大震災の支援活動を継続していきます。主な活動は以下の通りです。
1)閖上中学校で亡くなった14人の中学生の慰霊碑を守る社務所であること
2)3月11日の「追悼の集い」を実施していくこと
3)少しでも多くの語り部を見つけていくこと
4)津波で被災した誰かが語りたくなったとき、そこに「語りの場所」があること
5)津波に向き合うということが大切であるということを伝えていくこと
6)他の被災地の皆さんと連携すること
7)日航123便墜落事故「8.12連絡会」のみなさまなどと連携していくこと
8)今後どのように復興が進んでいくのか見守っていくこと
そのために皆さまの変わらないご支援をお願い申し上げます。
10年、20年と続けていくべき活動であると自負しております。